Surrogatesリアル・セカンドライフ

売れる映画と売れない映画、その違いは一体どこにあるのでしょうか。もちろん作品自体の出来に最も左右されるのだろうとは思いますが、配給元がどれだけ売ろうとするかでかなり違ってしまうのではないでしょうか。売る気のある作品はたとえそれが駄作であっても、あの手この手のプロモーションでいかにも面白そうに見せてしまったりしますが、そうでないものはなかなか露出の機会もなく、人知れず終わってしまうというようなことになっているような気がします。

今日、私は一昨日公開の「サロゲート」という作品を観てきましたが、実は私はその公開当日になるまでこの作品について全く知りませんでした。今週発売だった雑誌「DVDでーた」を買って見ていて、新作劇場映画のページに半ページだけ使って紹介されているのが目に止まったのでした。まあ、妻に何を観てきたのかと聞かれて答えたら知っていたので、私の知らないところではそれなりに宣伝されているのかもしれませんが。

さて、この作品の舞台は近未来のアメリカで、「サロゲート」と呼ばれる代理ロボットを脳波でリモート制御して分身とし、自分は自宅にいながらにして社会生活を送ることが当然となっている世界です。もともと軍事目的で開発された技術の民間応用ですが、自分の好みの外見に作り上げたサロゲートを使用することで、美容整形では及びもつかない夢の生活を送ることができ、しかもサロゲートへのダメージは使用者にまで影響しないようになっているので身体の安全は確実に保証されています。その結果として殺人や傷害という事件が無意味なものとなり治安も良くなったということで、まさに理想的な社会のようで実に98%もの人々がサロゲートを使用しているということですが、サロゲートに抵抗を感じる残りの2%の人々は自治区を設けてサロゲートの入り込まない「自然な」生活を送っています。

このサロゲートの技術的な課題についてはいくらでも思いつきますが、あくまでフィクションなのでそこに突っ込むのは野暮というものです。しかし一方で、作品中で「サロゲートにより人種差別や性差別などの問題が急速に解消された」というようなことが言われていたと思いますが、本当はそれらは解消されたわけではなく隠れて見えなくなっただけで、問題はより根深いものになってしまってはいないのでしょうか。またもう一つ、本当にこのような技術が実現した場合、貧富の差がより拡大するような気がするのですが、それも解決されたことになっているのでしょうか。現実的に考えれば、経済状況がサロゲートの外見や性能に直接反映されてしまい、それが差別の原因になってしまうのではないかと思われます。

まあそれはこの作品のストーリーとは全く関係ないのですが、そんなことも考えてしまうくらい、あながちありえないとも言えない設定ではないかと思います。ただ、サロゲートを通して五感も伝わるようにはなっているようですが、技術的にはそこが一番難しいところでしょうか。それでも自律的に動く人工知能が開発されるよりは早いでしょうから、それが何十年、何百年後かにはなるかもしれないものの、いつかは実現してしまうかもしれません。

ということで、設定についてだけでこれだけ語れてしまうわけですが、これは本物のSFなのではないでしょうか。近未来のはずなのに走っている車が現代の車そのままだったり、サロゲートだけがオーバーテクノロジーのような気もしないではありませんが、私は結構楽しむことができました。褒め言葉にはならないかもしれませんが、もしもこれが80年代の作品であったとしたら、かなりの話題作になっていたことでしょう。

ちなみにこの作品の主人公はBruce Willisですが、彼のサロゲートが髪はフサフサ、肌はつややかな若々しい姿で、この世界への違和感を感じさせてくれます。これは意図的なものなのでしょうが、Bruceにしてみれば心境は複雑でしょうね…